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70年7月30日 大阪労災病院にて生まれる

誕生後、兵庫県神戸市→ザイール(現コンゴ共和国)→兵庫県神戸市→アルジェリア民主人民共和国→兵庫県神戸市→東京都品川区→練馬区と、小学校入学まで各地を点々とする。

アルジェリアで通ったフランス大使館附属幼稚園ではアジア人独り。当然(!?)、ヨーロッパ人の子どもらに苛められる。帰国後の小学校でも、何故か同じ日本人に苛められる。ちなみに、姉はアルジェリアでアメリカンスクールに通っていたのだが、僕とは違い日本人の子どもらに苛められたという。どうした日本人…。

90年4月 東北福祉大学社会福祉学科福祉心理学科入学

人間に関わる勉強がしたかったことと、これから超高齢化社会が到来することもあっての選択。しかし、国がここまで福祉の現場で働く人間をないがしろにするとは思わなかった。この選択が人生ハードモードの大きな要因になっているのは間違いない。

94年4月 東北福祉大学社会福祉学科研究生入学

大学院の修士課程進学希望だったのだが、四年の夏に突然椎間板ヘルニアを発症し、約一ヵ月半寝たきりになる。また、当初予定していた卒業論文のネタが学外の協力者の心変わりにより使えなくなってしまう。結果、受験勉強する暇もなく、卒業論文を仕上げるのに手一杯な状態に陥る。そこで、研究生という身分を使って一年間受験勉強をすることにした。

しかし、大学院受験の一発目、T国際大学大学院を受験した際、インフルエンザに罹患。その日の夜から40度近くの高熱を出し、見事にダウン。それ以降の受験が出来なくなってしまう。そして、T国際大学大学院は桜散る…

95年9月 特定医療法人T 茅ヶ崎T総合病院へ就職

2年も浪々の身ではいられないので、知人の紹介もあり同院へ就職。
ケースワーカーで入った筈なのに、何故かずっと医事課で医事業務。挙句に、放射線科のレントゲン等の写真整理と言う閑職に飛ばされ、そして資材課へ。

97年7月 特定医療法人T 茅ヶ崎T総合病院を退職

一応、書類上は週休1.5日にも拘らず、実質は月休が3~4日。泊まり勤務もあり、そこにヤクザまがいの上司からのチクチクが重なり心身共にボロボロになり、退職。

97年9月 医療法人U 老人保健施設Uへ就職

大学の親しかった就職部の先生より紹介され就職。大学四年の時に在籍していたゼミの教授の名言「人生風の吹くまま」。それ以来、その言葉が座右の銘となり、風の吹くままT県のこの施設へ。

01年8月 医療法人U 老人保健施設Uを退職

傍若無人な法人幹部の一人と関係悪化。事務長より「病気の患者さんと接するような気持ちで対応してくれないか。」と言われ、努力したけど無理だった。

その後、看護助手への異動などもあり、ここでの自分の将来に疑問を感じ、当初の目的であった介護支援専門員の資格も無事取得出来たので、在宅という次のステージへ。

01年9月 社会福祉法人S D在宅介護支援センターへ就職

ここでの仕事を通して日本が抱える高齢化社会の問題を直に肌で感じる。
介護保険関連の仕事の他に、地域型在宅介護支援センターなので介護予防事業等の区からの委託業務も担当する。

事業所のあるN区は理想高く、でも仕事は全部地域型の在宅介護支援センターに振るのでとても忙しかった。でも、それと同じく遣り甲斐も感じていた。最初は。

6年8月 社会福祉法人S D在宅介護支援センターを退職

改正の度に現実の生活と乖離していく制度と利用者、利用者家族の板挟み。困難ケースの家族との軋轢等々。業務過多による疲弊。直接の上司との相互不信。少しずつ心身が蝕まれていく。

常にいっぱいいっぱいの精神状態、ケアレスミスの増大、不眠、過食、眩暈、頭痛、嘔吐、出社拒否の衝動…最早、鬱直前!
主治医より「このままじゃ死んじゃうよ♪」と言われ、退職を決意。

色々逡巡した結果、今まで人のために使っていた時間を自分のために使うことにする。
そう。絵描きになる決意をしたのである。

06年11月 WEB制作の職業訓練校へ入学

絵描きになるといっても日銭を稼ぐ手段が必要なので、前々から興味のあったウェブサイト制作の知識とスキルを身につけることにした。画像(写真、イラスト、書画等)、動画、音楽、文章等々、あらゆる表現が可能な世界。素晴らしい。

いくつかの学校を調べたところ、どこも何十万円の授業料。失業保険の手続きをしに行ったハローワークで職業訓練を調べてみると受講料たったの¥15,000-。スクールと同等の内容。速攻で申し込み、無事試験を通過し入校。

07年6月 ㈱C介護センター某SCへ就職

「若者を安い賃金で♪」が基本スタンスのウェブ業界。就職活動がままならぬ中、以前同僚で、現在は某訪問介護事業所でセンター長をしている知人から緊急ヘルプの連絡が。

高齢福祉の世界とは決別するつもりでいたのだけれど、知人のSOSを無視するわけにもいかず、数日悩んだ挙句、次の後任が決まるまでとの条件つきで、介護支援専門員として現場復帰。

08年2月 ㈱C介護センター某SCを退職

「ある事情」により後任者が決まらないまま10ヶ月が経過。やはり、ポンコツの私には限界が来るのが早かった。再び心身状態不安定となり主治医からデパス処方。原因は過度のストレス。その時に主治医から一言。「また、このままだと死んじゃうよ♪」と。そこで、上司である知人に状況を説明し、無事に退職。

つくづく自分はこの仕事は向いていないと実感。

08年同月 絵描きとして生きていくことを決意

今までの経験から、この年齢でウェブの制作会社に採用されることは殆ど不可能であるとの結論に達していたので、この選択肢は消去。本筋に戻り、絵描きとして歩んでいくことを決意する。後はひたすら絵を描くだけ。

目の前にはひたすら険しく、超高い山がそびえている。息切れや一休みはあっても、挫けることなく登って行くことにしよう。